岡本綺堂 著
修善寺を舞台にした戯曲。明治44年1月号「文芸倶楽部」に発表され、同年5月に明治座で、二世市川左団次の夜叉王を主役に初演された。修禅寺に残る古面の興感と、金剛右京の能面にまつわる伝説に取材したといわれる新歌舞伎の代表的作品の一つである。
修善寺に住む面作師夜叉王が、将軍源頼家の命でその面を打つが、どうしたわけか死相が現われ満足なものが打てない。しかし、頼家はその面が気に入って、夜叉王の反対するのも聞かないばかりか、気位高く殿上人に憧れていた姉娘のかつらをも召し抱えて去る。その夜、頼家は北条方の刺客に襲われ、ついに命を落とす。このとき、かつらは父の作った頼家の面をつけ身替りとなって応戦するが、重傷を負って父のところへたどりつく。夜叉王はかつらの持つ面をとり「幾度打直しても死相の現れたのは、おのれの腕のつたなさではなく、頼家の運命が面に現れたのだ」と悟る。
そして「技芸神に入ることはこのこと、われながらあっぱれ天下一だ」といって、さらに創造の意欲を燃やし、死んで行く娘かつらの顔を、若い女の断末魔の面の手本にと筆を取る。
明治43年8月6日、漱石は病気療養のため修善寺温泉菊屋旅館に滞在。修善寺への転地療養に期待したが病状は悪化の一途を辿り、8月24日危篤状態に陥る。これが世にいう修善寺大患であるが、9月も初旬になると少しずつ快方に向い、10月には帰京できるまでに回復する。この修善寺における大患が漱石の心に転機をもたらし、以後の作品に大きな影響を与えたといわれている。
島木健作 著
昭和19年島木健作は胸部疾患の療養のため修善寺に滞在。桂川上流で取材した傑作の短編「赤蛙」は遺稿とも言われ死期の近かった健作が蛙の生への努力を共感をもって感慨深く眺めている様が書き出されている。
泉鏡花 著
川端康成 著
永遠の名作「伊豆の踊り子」はノーベル賞作家:川端康成の代表作のひとつである。文中、青年が踊り子と始めて出合った橋(湯川橋)が登場してくる。
俳句雑誌『ホトトギス』の中心的存在であった高岡虚子は修善寺温泉にゆかりがあり、度々修善寺温泉に来訪していた。
正岡子規と並ぶ俳人でもあった尾崎紅葉の代表作「金色夜叉」は修善寺温泉に滞在中に執筆された。
戦争中に修善寺に疎開していた中村吉右衛門は歌舞伎俳優であるが虚子と交遊し、「ホトトギス」同人となる。