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修善寺の山水を愛した文人墨客は多く、その感銘を詩歌や小説に託し、あるいは随筆紀行に綴っています。
このうちの幾つかの詩歌が、石碑に刻まれ、建立されているので、自然を散策しながら文学碑めぐりが楽しめます。


修禅寺物語 

岡本綺堂 著

修善寺を舞台にした戯曲。明治44年1月号「文芸倶楽部」に発表され、同年5月に明治座で、二世市川左団次の夜叉王を主役に初演された。修禅寺に残る古面の興感と、金剛右京の能面にまつわる伝説に取材したといわれる新歌舞伎の代表的作品の一つである。
修善寺に住む面作師夜叉王が、将軍源頼家の命でその面を打つが、どうしたわけか死相が現われ満足なものが打てない。しかし、頼家はその面が気に入って、夜叉王の反対するのも聞かないばかりか、気位高く殿上人に憧れていた姉娘のかつらをも召し抱えて去る。その夜、頼家は北条方の刺客に襲われ、ついに命を落とす。このとき、かつらは父の作った頼家の面をつけ身替りとなって応戦するが、重傷を負って父のところへたどりつく。夜叉王はかつらの持つ面をとり「幾度打直しても死相の現れたのは、おのれの腕のつたなさではなく、頼家の運命が面に現れたのだ」と悟る。
そして「技芸神に入ることはこのこと、われながらあっぱれ天下一だ」といって、さらに創造の意欲を燃やし、死んで行く娘かつらの顔を、若い女の断末魔の面の手本にと筆を取る。


夜叉王の住む桂川(修善寺川)のほとり、虎渓橋の袂から修禅寺の山門を臨む場面、また、頼家とかつらが橋の側で語り合う場面など、随所に修善寺温泉の風情が盛り込まれています。


▲修善寺虹の郷内「漱石庵」(旧菊屋旅館別館)

夏目漱石 


明治43年8月6日、漱石は病気療養のため修善寺温泉菊屋旅館に滞在。修善寺への転地療養に期待したが病状は悪化の一途を辿り、8月24日危篤状態に陥る。これが世にいう修善寺大患であるが、9月も初旬になると少しずつ快方に向い、10月には帰京できるまでに回復する。この修善寺における大患が漱石の心に転機をもたらし、以後の作品に大きな影響を与えたといわれている。


修善寺 虹の郷内に旧菊屋旅館の別館、漱石が滞在した部屋が移築・復元されています(写真上)。

また修善寺もみじ林(自然公園)の中には、大患の際に詠まれた漢詩の句碑があります。


吉田絃二郎 


修善寺から大仁行きの馬車は互いに「さようなら」「御機嫌克う」と挨拶が交わされて鈴を鳴らしながら出発する。

吉田絃二郎の作品の中には修善寺を記したものが少なくないが「修善寺行」(小鳥の来る日)もそのひとつである。 旅を愛し、修善寺の山や川に親しみ、大正5年頃から昭和31年に他界するまで毎年長逗留することが多く、この地をこよなく愛した作家である。妻明枝が昭和12年42歳で早逝したとき、修善寺を一望できる塔の峯の山腹に遺骨を埋葬し、修善寺小学校に吉田文庫を寄贈した。絃二郎も70歳でその生涯をとじ、その分骨は長葬の礼をもって鹿山の墓所に妻明枝とともに眠っている。

指月殿裏山の鹿山に墓所と句碑があります。
修善寺小学校に寄贈された吉田文庫は、昭和40年に復元され、その後平成13年に修復されています。


赤蛙  

島木健作 著

昭和19年島木健作は胸部疾患の療養のため修善寺に滞在。桂川上流で取材した傑作の短編「赤蛙」は遺稿とも言われ死期の近かった健作が蛙の生への努力を共感をもって感慨深く眺めている様が書き出されている。


滝下橋たもとの『赤蛙公園』はこの小説にちなんで命名されました。春には桜のライトアップ、初夏には蛍が見られます。


▲いろは石

遺稿  

泉鏡花 著

伊豆の修禪寺の奧の院は、いろは假名四十七、道しるべの石碑を畷、山の根、村口に數へて、ざつと一里餘りだと言ふ、第一のいの碑はたしか其の御寺の正面、虎溪橋に向つた石段の傍にあると思ふ……

泉鏡花の没後に机の引出しから見つかった無題の作品。修禅寺から奥の院まで道標のいろは石を辿った夜歩きでの怪異談が幽玄に語られている。

いろは石は修禅寺の階段の横にある『い』から、奥の院の『ん』まで、約5Km(徒歩およそ1時間半)の道のりの道標になっています。


▲旧湯川橋(現在は架け替えられています)

伊豆の踊り子  

川端康成 著

永遠の名作「伊豆の踊り子」はノーベル賞作家:川端康成の代表作のひとつである。文中、青年が踊り子と始めて出合った橋(湯川橋)が登場してくる。


修善寺駅から修善寺温泉へ向かう途中、交差点『湯川橋』を左折したところ(町道12010号線)。(執筆当時の橋は現存しません)


▲高浜虚子句碑(修善寺梅林内)

高浜虚子  

俳句雑誌『ホトトギス』の中心的存在であった高岡虚子は修善寺温泉にゆかりがあり、度々修善寺温泉に来訪していた。


修善寺梅林内に『北に富士南に我家梅の花』の句が刻まれた句碑があります。


▲尾崎紅葉句碑(修善寺梅林内)

尾崎紅葉  

正岡子規と並ぶ俳人でもあった尾崎紅葉の代表作「金色夜叉」は修善寺温泉に滞在中に執筆された。


『いかさまに霞むやと岡に渉りけり』の句碑が修善寺梅林内にあります。


▲中村吉右衛門碑(修善寺梅林内)

中村吉右衛門  

戦争中に修善寺に疎開していた中村吉右衛門は歌舞伎俳優であるが虚子と交遊し、「ホトトギス」同人となる。


「鶯の鳴くがままなるわらび狩」の句碑が梅林内にあります。


【宿泊に関するお問い合わせ】
 修善寺温泉旅館協同組合
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【観光に関するお問い合わせ】
 伊豆市観光協会修善寺支部
 TEL.0558-72-2501
 Mail:syuzenji@axel.ocn.ne.jp