月見ヶ丘について、明治の書物には以下のように記されています。
横瀬渡船場の右に當りて狩野川に臨める小丘即ち是れなり。里中の口碑に云う、頼家公の當地に幽せらるゝや、山峰四邊を圍み蓊蒼として月を観るに便ならず、此所に到りて始めて月皎々たるを見るを得たりと。今は頂上に保食の神を祀り、中腹に六道能化の地蔵を安置し、呼んで笠冠地蔵尊と稱す。---桂谷勝概より
これによると、修善寺に幽閉されていた頼家は、あたりに草が生い茂っていて、月を観るのに良い場所がなく、この月見ヶ丘まで来てようやく煌々と輝く月を観ることが出来たそうです。
『頂上に保食の神を祀り』というのは、元は横瀬八幡宮の舊地で、頂上にある祠には保食神(うけもちのかみ)が祀られているそうです。
余談ですが、保食神とは食べ物・穀物を司る神様で、日本書紀では口から出した食物で月夜見尊をもてなした、とあります。
(月夜見尊は「口から出したものを食べさせるとは汚い」と怒って保食神を斬ってしまったそうですが。)ともあれ、ここで月夜見尊(月の神様)につながるとは、偶然とはいえ何だか御縁を感じます。