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尼将軍として実権を握り、非情の母とも思われている北条政子ですが、修善寺温泉での政子の印象は違います。

北条一族の策略に翻弄され、犠牲となった我が子に心を痛め、
墓の側に多重塔を建立して中国宋時代の一切経(経・律・論の三蔵をはじめ、すべての仏典を収録した大蔵経)の数千巻にも及ぶ経典を納めて菩提を弔っているのです。

修禅寺にはその中の第23巻、『放光般若波羅蜜経』が残っており、
巻末にある豆州修禅寺の墨印の欄外に「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提 尼置之」とやや右上がりの墨書があり、北条政子の直筆とされています。

大河ドラマ鎌倉殿の最終回、修善寺にとって実に受け入れやすいラストだったのです。
それは何故か。

修善寺から見た北条政子は悪女ではないからです。
結論から申し上げますと、修善寺から見た北条政子は子想いの悲劇の母親です。

修禅寺に詳しい方はご存知だと思いますが、修禅寺の御本尊の大日如来坐像の中には鎌倉時代の女性の黒髪が納められております。


像の激しい損傷の為、昭和59年に修復する際に解体したところ像内から3束の髪の毛が見つかりました。

また像の内側に「承元四年庚八月二十八日 大仏師実慶作」と書かれており、1210年8月28日に幻の仏師実慶により作られ、一度も開けられた形跡がないことから髪の毛もその当時の人物のものであることは間違いないことが分かりました。(頼家死亡は1204年)

▲像内から政子のものと思われる髪が発見された大日如来坐像
昭和59年はまだDNA鑑定が確立しておりませんでしたが、血液鑑定などから3束のうち2束がO型(右、左と書かれていた為、恐らくこの2束は同一人物)、もう1束がB型と判明しました。

そしてそのO型の毛髪は髄の模様や元素分析が伊豆山神社にある政子の髪の毛を刺繍したと言われている曼荼羅の髪とほぼ一致していると鑑定され、当時のテレビでは政子の毛髪だと断定して放映されたりしました。

しかし吾妻鏡には1210年7月8日に頼家の正室の辻殿(公暁の母)が出家したと書かれており、タイミング的に辻殿の可能性が非常に高いと主張する方もいたそうです。 ただ毛髪には白髪も混じっていたそうで20歳前後であろう辻殿の髪だとすると不自然だという意見も出たそうです。 更にこの像は頼家の7回忌に合わせて作られただろうと言われていますが頼家の命日は7月18日であり、そもそもに間に合っていないので頼家の為に作られたのではないのではないかという根本を覆すような考察もされたようです。

▲政子の直筆とされる墨書が見られる『放光般若波羅蜜経』
結局、政子の毛髪であるかどうかは謎のまま修復作業は終わり中に戻されることになりました。 その時に一部の研究者から今後の研究の為や科学的な保存の為に胎内に戻すことは避けた方が良いのでは等と様々な意見や要望が出たようです。

しかし当時の住職の「なによりも髪を納めた女性の気持ちを尊重しなければならぬ!」という一喝でそれらの声を打ち消したそうです。

▲北条政子が源頼家の菩提を弔うため建立した指月殿


再度仏像を解体しなければならない程の修復が必要になるのは恐らく1000年くらい経った後であろうと言われております。 DNA鑑定が可能な現在、毛髪を取り出し鑑定すればそれが政子のものなのかどうかは分かると思います。 しかし謎は謎のまま残していくのも一興、政子の想いを不必要に探ろうとすること自体が後世に生まれた者たちの傲りなのかもしれませんね。

とは言え、 やはり修善寺の人々にとってこの黒髪は北条政子のものであり、償いの為に大日如来坐像を作らせ、その中に自分の魂として黒髪を納め、その像に相対させるように指月殿(源頼家の墓)を建て、未来永劫、愛息の頼家を見守ろうとしたと信じているのです。

▲指月殿横源頼家の墓


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